vol,02 経験値

服代は必要経費。
とはいえ、この服を買ったらアイツ怒るだろうな。いい加減にしないと家族から干されるぞ、自分。

なんて流暢に構えてはいるが、もうすぐ我が家に一大イベントが訪れる。
子供が生まれるのだ。
「まぁ、何とかなるだろう」と考えてはいるが、子持ちの友達や先輩に聞くとやっぱりアレが掛かりそうだ。
アレとはそう“お金”のことである。

この仕事だけでやっていけないわけではないが、やはり家族が一人増えるのだから、それなりに“金”は必要だ。夫婦二人ならともかく、子供を育てていくためにかかる金額をネットなどで調べれば、調べるほど益々これからが不安になる。

「やっぱり、転職考えた方がいいのかなぁ…」

好きな仕事ではあるが、背に腹は代えられない。そんなことを考えながら店頭に立っていると客も寄ってこない。苦悩の表情が漏れ出てしまっているのだろうか…

「あれ?なんか浮かない顔してますね」
そう声をかけてきたのは常連客の一人だ。

あぁ、会社帰りに店に寄るって連絡あったな。こういう時は客と話すと気がまぎれる。公私混同ではないが、好きな服の話やお客の近況や愚痴を聞きつつ、商売ができるというのはある意味、販売という仕事のいいところだと思っている。
趣味や好きなことが生かせるし、遊んだり、本読んだり、映画観に行ったり、ライブに行ったり、そんな自分の遊んだ経験値までも仕事に生かせるってところが、自分には合っていると思っている。

「どうしたんですか?いつもは俺の愚痴聞いてくれるのに、今日は変ですね。悩み事でもあるんですか?」
「あるけど、お客さんに聞いてもらう話じゃないし(苦笑)」
「そんなこと言わずに教えてくださいよ。常連客ですよ、これでも(笑)。いつも自分のことばかり相談してるから、たまには話聞かせてくださいよ」

そういえば始めて接客した頃、彼は大学生だった。同年代というのもあって、具体的なアドバイスできたのがよかったのか、いつもこの店に服を買いに来てくれるようになった。
結婚の挨拶で彼女の家に行くときに何を着ていけばいいか相談されて悩んだな。うちの店、カジュアル強めでキレイ目の服が少ないから。その時は似合いそうな別ブランドのショップを案内したんだっけ。
確か、仕事はIT系の営業だったよな。
家族がいるという点では俺よりも先輩だ。服好きの一般人としての意見、アパレル業界の事例よりも具体的な話も聞けるかもしれない。

「いやぁ実はうちも子供が生まれるんですよね」
「それはめでたいじゃないですか!よかったですね。で、いつ頃生まれるんですか?」
「あと3か月後かな、予定では…」
「じゃあ、もうそろそろ色んな準備しないといけないですね」
「そうなんだけどねぇ…ちょっと質問していい?子育てのお金っていくらくらいかかってる?」
「あぁ、そのことですか。それなりにかかりますけど…結局は将来子供が行きたいっていう学校次第ですから」

そうだよね―――

大相談会はカネの話から仕事の話まで及び、ありがたいことに気になっていたというアウターまで買って帰っていってくれた。
お蔭で頭の中はスッキリした。
思い立ったら吉日。早めに店長に意思を伝えないとな…

「店長、ちょっと相談というか、これを…」
「そうか、決めたか。このところ浮かない顔していたもんな。ま、この際だから異業種も経験してみるのもいいと思うよ。俺、思うんだけど、この仕事ってコミュニケーション力が鍛えられるから、これからどんな仕事をしても生かしていけるよ」
「そうですよね。大分、店長にコミュ力鍛えられましたもん(笑)」

話はすんなりと進んで、販売職を退いた。
もう、15年前の話だ。

異業種で働いてみると、改めて人には向き不向きというものがあるのを実感した。その仕事がこなせないわけでもないし、嫌いでもないが“やりがい”というものを感じられなかった。
よく趣味や好きなことを仕事にした方が良いか、趣味や好きなことを維持するために仕事をする方が良いかという論争があるけど、自分は前者のタイプであること知ることができた。
そういう意味でも、この期間は良い経験になった。

一方、販売を離れている間にアパレル業界も環境が少し変わってきたようだ。
それに自分自身の環境も変わった。
そんな頃に店長から連絡があった。

「最近、どうしてる?仕事は順調かい?」
「ま、それなりに。って、どうしたんですか?」
「お前が辞めてもう10年だろ。もうそろそろ、この仕事に戻りたいって思っているんじゃないかってね(笑)。あれ?そうでもないか。余計なお世話だったかなぁ」
「いや!そんなことないです。電話でも何なので、今度店に行きますよ!」

今度は異業種で培った経験を生かして、店頭に立っている。
販売は面白し自分に合っているが、一度“客”の立場になることができて、さらに販売が面白くなった。

この記事を書いた人

苫米地香織

苫米地香織

服が作れて、グラフィックデザインができて、写真が撮れるファッションビジネスライター
日本で一番アパレル販売員を取材している人